随筆集 生と死

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訣別と逃避

岡本幹輝

  誰でも誤った道に踏み込んだと気付いたときには、直ぐに引き返すか、そこから乗り換えることができるのであれば 直ちに別の道に進むことを決断する。簡単なような事ながら、この訣別という方針転換が実は容易ではないことが多い。 犯罪や麻薬、ばくち、暴力団など誰でも知っている誤った道に入るのは、最初から誤った道であることを知っての上で の選択なのであるから、気付くも何もあったものではなく、この場合には訣別は、相当に勇気を要することではあるが、 事の性質は単なる決断の問題なのではある。そうではなく、自分の選択した道が誤っているか否かが不明なとき、その誤 りをどうやって気付けるのかという問題の方が難しい問題なのである。自分で確信を持ってこれに気付くことは、最初に 採った自分の選択が間違いであったことを認めることになるのでこれは意外に難しく、たいていは周囲の人の忠告や助 言、指導でその間違いに気付かされる。 さて間違いであることに気付いたときに、これをそうだと認めるかどうかも難しい問題である。大見得切ってその道 を選んだときには、みんなの手前いまさら引っ込みがつかなくなり、強情を張って誤りを修正するよりはと、誤りに突き 進む自殺行為を採る頑固者も出てくる。誰か周りの者が止めてくれないかと内心で期待する甘え心を持つ場合も、落語の 世界にはよくある話である。 このように自分の意志の力で誤りを修正できるような場合は、強情を張ろうが張るまいがまだよいのである。問題な のは、本人が間違いに気付いて改めようとしても周囲の環境がそうさせない場合である。前述した暴力団からの脱会の場合 のように、誤りを本人が修正しようとしても、周囲がこれを妨害するというようなケースである。暴力団ばかりではなく、 規律の厳しい大学の体育会系の運動部や新興宗教の組織での場合には、脱会者に対する暴力的な制裁が加えられる危険性も あるであろう。そのようなとき、まわりから浴びせられる非難は、「我慢が足らない!」、「意志薄弱だ!」、「泣き言を言うな!」、「逃げるのか!」、「Chicken( ひよっこ)!、 弱虫!」や「卑怯だぞ!」とか「いったん決めたことは最後までやり通せ!」などの常套句である。そしてこのような常套句に良心的で誠実な人ほど弱いのである。 「男子ひとたび笈を背負いて郷関を出れば、学成らざれば死すとも帰らじ」との勇ましい先覚者の叱咤激励や、中江藤 樹の母のように志半ばで雪の中を帰宅してきたわが子を家に入れずに追い返したなどの故事も思い出され、「自分は逃げ ている弱い人間なのではないか?」と、折角の強い決断にも拘らず迷いだす。  しかし、逃げや逃避こそ、強い決断行為に当たることも場合によってはありうるのだ。火災や戦乱現場からの逃避は勇 気ある選択なのである。山で迷ったとき先に進むより「引き返す勇気を持て!」とはよく言われる言葉である。ノイロー ゼや強迫神経症に陥ったときに、ある固定観念から逃れられず、一つことをいつまでも掘じくり追求し、疲れ果てて終に は廃人になってしまうのは日頃から誠実な人ほど多いという。こういうとき、その固定観念から離れて他のことに関心を 移すべきなのであるが、「自分は逃げているのではないか?」と良心的な人ほど他に関心を移せない。むしろ「強い人ほど逃げるのが巧い」と思うべきである。

以 上                                          

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