随筆集 生と死

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名付け 

(ネーミング)

岡本幹輝

私たちは、今までに知られていない何か新しい事態や事物に直面したときには、知らず知らずのうちに、まずその対象を分析(アナライズ)し構成している要素を摘出し、次にこれと類似した要素を持つ既に知っている他の事態や事物と同じ仲間に新しい対象を類別(グルーピング)して位置づける。更に周りと比較し格付け(ランキング)合って差別(ディスクリミネート)した上で、この新しい事態や事物に名付け(ネーミング)をすることで理解、納得して安心し、他人にもそう紹介する。頭のよい人ほど巧みにやりこなす。

この手法や考え方は、近世ヨーロッパで自然科学の発達とともに取り入れられたもので、日本でも古くから無かったわけではないのであるが、もともと情に流れやすく分析的思考方法はなじみが薄い国民性や、さらには、仏教が分別智としてこの手法を遠避けたこともあり、本格的には19世紀後半以後の近代国家の成立に伴って欧米から導入され人々が身に付けたと言ってよい。

今の人々はこの手法や考え方を極めて当然のこととして受け止め、これ以外のやり方や考え方は非科学的で劣った方法だと見做している。確かに自然現象を神のお告げであるとか人間の犯した過ちに対する天の応報であるとか解釈したり、また身に降りかかった不幸を前世の因縁だなどとする受け止め方は、文学や美術、道徳や宗教の世界では許されても、実生活においては、非常識で因果関係を伴わない迷信に属することとして否定されるのが通常である。

しかしながら、このように他の手法や考え方をいっさい否定することが果たしてよいことであろうか? いわゆる近代的な科学的手法や考え方のみを信奉することが、むしろ独断や狂信(ドグマ)に通じる危険性のあることにも思いを致さねばならない。私たちは、世の中には他の手法や考え方も存在する余地のあることを認めこれを理解した上で、みずからが信奉する手法や考え方を補完することも必要であろう。

たとえば、医学において考えてみよう。人が発熱し腹に痛みを訴えたとき、医者は診断した上で、病名を付けてから治療に当たる。食中りなら下剤、風邪なら風邪薬、盲腸虫垂炎なら手術、精神的なものから来たと診断すれば診療内科で問診といった具合にである。しかし、医者のこの治療方法は、ヨーロッパで近世以後発達した科学的手法を踏襲したものであり、日本ではわずか百数十年前において初めて正式に採りいれられた手法である。それまで日本での医術は、中国古来のいわゆる漢方という手法が一般に用いられていた。

漢方では、上のような症状を持った患者に対して医者は、熱さまし薬と腹痛薬を調合して投与するだけであろう。つまり対症療法である。そこでの医者の関心事は病名を付けることではなく、症状を拾い上げ対処することである。西洋医学の立場から見ると漢方のこのやり方は危なっかしくて見ていられたものではない。もしも病気が虫垂炎であった場合には、手術しなければ取り返しがつかなくなる事態になるかもしれない。しかし、漢方医の立場から見ると、病名を虫垂炎だと名付けたことが間違っていた場合に手術したとしたら、正常な身体を傷つける危険性が西洋医学にはあるではないかということになる。対症療法の漢方医学には誤診というミスは存在する余地はないからである。

だから漢方医学の方が西洋医学よりも優れているなどと言っているのではない。異なった手法や考え方にも無視や否定のできない充分な存在理由があることに、思いを致すべきだと言いたいのである。とりわけ、自らにとって経験のない未知の新しい事態や事物に直面したときに、既知の事態や事物に共通する要素を見出してこれと同じ仲間に類別(グルーピング)して名付け(ネーミング)をする危険性はよくよく注意すべきである。

今から二千数百年昔の中国に二つの巨大な思想が誕生し、綿綿と互いに補完しあって今日まで脈脈と伝えられている。一つは孔子、孟子に代表される教え(いわゆる儒教)であり、もう一つは老子、荘子(そうじ)に代表される教え(いわゆる道教)である。(ほぼ同じ頃、インドでは釈迦が、またギリシャではソクラテスとプラトンが思想上の教説を確立して布教活動をしていた。いずれも時代が近接していて、地理的にもヨーロッパから見れば東方(オリエント)であることが興味深い。またある意味ではユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の始祖とも言えるモーセはそれよりも更に五百年ほど前の人であるが、この人もヨーロッパから見れば東方(オリエント)の人である。) 儒教が聖人君子を手本として仁・忠・孝など君臣や父子関係の道徳のありかたを説いたいわば表(おもて)の生き方を示したのに対して、道教の方はむしろ人智の賢しら(さかしら)を捨て生来のあるがままのいわば裏の生き方を説いたことはよく知られている。

荘子の著作といわれている『荘子』の内篇の最後に有名な話が載っている。あるとき、南海の帝の儵(しゅく)と北海の帝の忽(こつ)とが中央の帝の混沌(こんとん)に手厚く接待(もてな)された御礼に七日かかって目・鼻・口・耳の感覚器官七つの穴を穿って差し上げたところ、混沌は死んでしまったという。混沌とはカオスのことである。天地開闢の時に全ては混沌としてカオスの状態にあったとは、日本での最初の物語である『古事記』でもこの国は「浮き脂の如く、くらげなすただよえる」状態にあったとされ、『聖書』創世記でも「初めに地は混沌であって闇が深淵の表にあった」とされている。それを神の力により形を与え名を付けることで世界が出来上がったのである。

荘子は神ならぬ人間が賢しら(さかしら)だてて事態や事物を分類(グルーピング)しこれに名前(ネー)を付ける(ミング)ことの恐ろしさに気づいていた。対象としての事態や事物それ自体をあるがままの姿で見ずに、既成概念を利用して、他と比較し差別する価値判断を持って眺めることになるからであろう。

とりわけしてはならないのは、対象物が人である場合である。「あいつは白人だ。いや黒人だ」、「あいつは○○県の出身だ。○○国の人間だ」、「あいつはイスラム教徒だ。いやキリスト教徒だ」、「あいつは隠れキリシタンだ」、「あいつは○○党の支持者だ、いや隠れ党員なのだ」。一般の人とは異なった言動を示す人物に出会うと、頭のよい人ほどこのような類別化(グルーピング)と名付け(ネーミング)をしがちで、その後に「だからあいつは・・・・・なのだ」との価値判断と差別が伴ってくる。場合によっては、そうでないと知りながら、わざと誤解させるために名付け(ネーミング)したりする。

そのような目で眺められた相手方としては「ゲーテとは俺のことかと Goethe 言い」とばかりに苦笑せざるをえないことになる。いや心寛く苦笑ですませる問題ではないのであろう。

以 上

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