随筆集 生と死

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和することと同ずること

岡本幹輝

「和」という言葉や文字を日本人は好きである。「平和」とか「温和」とか「和やか」という単語
が好感度の高いこととともに、日本国の古い呼称が倭(ヤマト)建(タケル)命(ノミコト)の歌ったとされる「倭(ヤマト)は国のまほろば(すぐれた良い所) たたなづく青垣山ごもれる倭しうるわし」という「大和の国」であるのも、親しみを感じさせる理由の一つなのかも知れない。しかし、古事記では「倭」と書かれた「ヤマト」が何故その後「大和」と表記されるようになったのか、万葉仮名で「山跡」とはせず、まして魏の国が呼んだとする一説のように「邪馬臺」とはしなかったのは何故なのかというに、そのわけは、「倭」とか「倭人」とかは当時の中華思想を露骨に誇示した中国が、周辺のいわゆる北狄、東夷、南蛮、西戎の国々を蔑視して、匈奴(乱れた騒がしい奴ら)、蒙古(文化の低い暗く古臭い)や、烏孫、烏桓、燕、羯などの動物名、さらに、鮮卑などと卑しめた字を宛て呼んだように、「矮」つまり背の低い奴らの国のことで、その中には「邪馬壹(臺?)」があり女王の名は「卑弥呼」なのだと蔑称したものだから、自国の名としては使用できなかったからである。
 この蔑称の「倭」を改め、同音から「和」を持ってきて更にその上に美称の接頭語の「大」を冠せて国名「大漢」の例などに倣って「大和」として、これを「ヤマト」と読ませた知恵者は聖徳太子である。多くの質の高い漢文の書物を著して、聖人君子の代名詞のような学者だと一般には思われている人物であるが、なかなかにしたたかな政治家で、当時混乱期にあった中国大陸や朝鮮半島の情勢を察して新羅征討の出兵を命じたり、漸く統一を果たした隋に特使として小野妹子を派遣して「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」と、受けた相手の煬(よう)帝(だい)からすると、「なにを野郎自大な!(漢時代、蜀の南方に実在した小国の野郎国の王が漢の使者に対して自国と漢といずれが大きいかを問うたということから、身の程知らずの意)」と怒るよりもむしろ呆れるような書簡を送ったとする説(聖徳太子ではなく、九州王朝俀(たい)国の天子である多利思(タリシ)北狐(ホコ)が中国へ送った国書だとする有力説もある。)もあり、(この点、千年後の豊臣秀吉に似ていなくもない)、更には、日本の歴史を、変革(革命、天の意志)は辛酉(カノトトリ)の年に起こるという讖緯説(しんいせつ)に則り、斑鳩(いかるが)宮を造ったAD601年が辛酉の年に当たっていたので、それより60(干支の一巡り年数)年×21(3×7縁起のよい数)=1260年前の辛酉の年であるBC660年に、神武天皇が橿原宮で即位して国家が始まったと背伸びして遡らせ、以後皇紀として、なんと第二次世界大戦が終わったAD1945年まで続くきっかけを作ったのである。(ちなみにAD1940年は皇紀2600年にあたるとして、その年には祝賀行事を日本各地で設け、「紀元は2600年。ああ一億の胸は鳴る!」の歌をうたわせられたのは、私どもの年齢の者にはまだ記憶に留まっている。)
もともとわが国の人々が殊更穏やかで「和」、つまり、自分の意見はハッキリと主張するが反対意見を持っている相手の立場をも尊重し、常に友好的な雰囲気を醸し出す間柄を維持することを重んじていたのではなかったとも思われるが(先住の南方系の稲作民族は温和であったろうが、後から侵入して混血した北方系の騎馬民族は決して温和ではありえない)、ひとたび国名とされ、17条の憲法(近代国家の最高法規である憲法とは異なり、古代官僚に心得を説いたもの)に「和を以って貴と為す」と記されれば、国是としてこれに従い、その精神を醸成するきっかけともなり得るのは否定できない。しかし皮肉にも聖徳太子没後には彼の皇子の山(やま)背(しろ)大兄(おおえ)は、当時の歴代天皇の外戚蘇我氏に滅ぼされ、その蘇我氏も大化改新で中臣(藤原)氏と組んだ皇子中(なかの)大兄(おおえ)に滅ぼされ、その中大兄(天智天皇)の死後にはその皇子大友(弘文天皇)が壬申の乱で天智の弟の皇子大海人(おおあま)(天武天皇)に滅ぼされるなど内乱が続いたが、その後は、平城・平安と長い文字どおりの平和の時代が続いたので、表面的には「和」の精神が定着したかのようであった。とりわけ、嵯峨天皇の818年から保元の乱の1156年まで347年間にわたり死刑が実施されなかった事実は世界史上で特筆され、またその後にも亘って長い歴史上宮刑(強制的去勢)の刑罰や宦官(去勢された役人)のような残酷な制度が導入されなかったことも、仏教の上層部への浸透と相まって、日本には「和」の精神が受け入れられたとの見方もできなくはない。そして極めつけは、1947年施行の現「平和憲法」にいたる。聖徳太子の精神は終に結実したかのようである。
しかし、別の見方によれば、狭い島国の日本は統治し易い(governable)国なので強力な中央集権の権力が生まれやすく、これに反抗しても逃げ出す地続きの場所がないので、下の者なら必然的に面従腹背の保身の姿勢を採らざるを得ないのだということにもなる。律令制度のもとで長く平安の時代が続いたというのも、藤原氏の一族独裁のもとで、それ以外の氏族は逼塞させられていたと見ることもできる。面従腹背は、決して「和」とは言い得ない。表面的に争いを避けるので一見穏やかで平和のように見えるだけである。嫌々であっても権力者に同調しているだけである。
このような争いを避ける姿勢が徹底されると、調整や馴れ合いが蔓延るようになる。とりわけ、調整を取り仕切る権力者自体が死んだりした場合、その後継者をめぐる争いは必至なので(この争いを調整する者がいないから)、このような事態を避けるために、権力者と先天的に血脈を同じくする者を、力は無くとも飾りとして後釜に持って来ざるを得ない。いわゆる、世襲制度である。かくて、世の中が平和になればなるほど争いを避けるという名目で、政治の世界ばかりではなく、大小の権力者が取り仕切るあらゆる分野に、血縁による世襲が見られるようになる。
いまや、選挙で選ばれているとはいえ、日本では首相、大臣や国会議員の多くは二世、三世である(アメリカ大統領も!)。また本来は実力の世界であるべき筈のスポーツの世界でも(優秀な親の遺伝子を受け継ぐので当然だと言える個人プレイの相撲のような世界は別としても)、個人の力がはっきりとは現れ難いチームプレイの野球界などで、実力者と言われる監督の愛息がレギュラーに選ばれる例も複数あることを我々は目にしている。まして価値判断の付け難い芸能、芸術や文学などの世界では、同じような傾向がふんだんに見られ、これらの分野へは、実力はあってもコネのない新人がなかなか入り込めない。そこで、日本よりも広い世界で価値判断を付けて貰おうと、海外のコンクールで認められて逆輸入の形で日本に紹介される新人も増えてくる。
この状態が、「和」の精神が生かされているということにはならない。一概に争いを避けることが「和」であるというのではない。いや、権力者や世間一般へのおもねりや迎合を大切にして、言論やスポーツ、芸術などの分野で自らの実力の発揮を抑制するのが「和」であっては決してならない。それは「同」、つまり、考えもまちまちな人間が、相手の立場に迎合し自分の本音を隠して、表面的にはにこやかに装って同じ仲間のように一箇所に集まることを意味する態度といえる。ただ単に一箇所に集まるだけで理想の状態だということにはならないのは当然である。最も親密であるべき夫婦が寝床を一つにしたとしても、互いにそれぞれが別人の異性を想う「同床異夢」すらありえるのである。古人も言っているように、「和而不同(和して同ぜず)」が肝要な姿勢なのであって、決して「和」にかこつけ大勢順応して流れに乗る「付和雷同」をしてはならないのである。流れに乗り遅れるなと自らにとって明らかに不利となるにも拘らず周囲の空気に過敏に反応して小選挙区制の導入に賛成し、結果として解党の憂き身を味わわされた小政党の例もある。「小異を捨てて大同につく」との大義名分も負け惜しみに他ならず、「和」でないことを自認していることに気づかない。
だいたい、「和」を「不争」と捉えるのが、そもそも誤解のもとなのではなかろうか。日本語で「争い」という言葉は広い意味を含む。「戦争(battle)」、「争闘(struggle)」という物理的な力(arm/force)を用いる争いから、平和的な「論争(dispute/debate)」や、商売や娯楽における「競争(competition/contest)」までと幅がかなり広い。言うまでもなく「和」と相反する概念は、戦争や争闘の方であるべきである。英語で共同を示す接頭語「com-」や「con-」が示すように、物理的な力を用いたとしても同じ立場の者が一定のルールの下で競い合うスポーツのような競争までも、これらを「和」に反するとして排除してしまってはならない。それどころかそのような平和的な競争は、大いにやって貰わなければならないのである。
しかし日本人は、このような競争すら、「和」の精神に反するものとして避ける傾向にある。論争は相手を言い負かすためにするのではない。自分の考えが正しいかどうか、相手と意見を激しくぶつけ合うことで確認したり修正するために行うのである。だから相手にまともに反論するのは失礼にあたると遠慮することが、反って相手に対して失礼な態度となり、自分もまた向上の機会を放棄することに連なるのである。
また、市場で価格競争をせずに情報交換により価格協定をしたり、市場を分け合ったりして、競合する売り手どうしが競争を回避するのは、決して「和」の精神に則るものではない。法律(独禁法。もっとも敗戦直後、新憲法施行直前に「同」の国日本へ戦勝国アメリカからの直輸入なのだが)ですらこれを禁じている。
かつて20世紀は資本主義にとっては存亡の危機の時代であった。19世紀に顕在化した二つの面での資本主義の大きな欠点、つまり、労働力という商品の提供者である労働者が、彼らの商品の対価である賃金が資本家のコストダウン意識によって切り下げられ悲惨な境遇に陥ってしまうことと、もう一つは、大企業が市場を独占して競争者を排除したり協定しあって価格を高水準に維持していくことである。社会主義や共産主義の立場からこれらの欠点を鋭く攻撃され、資本主義の側でも懸命な自浄努力がなされざるをえなくなった。一つが労働者保護のための労働法の法制化であり、他は、独禁法による競争の活性化である。
20世紀に成立した社会主義を標榜する国家は、100年も持たずに解体したか、方針転換を余儀なくされ、資本主義陣営は安堵するとともに、せっかく対抗措置として導入した自浄努力をここで緩めようとしてきている。自由競争のための規制緩和の美名の下に、労働者の保護法も見直され、正規の社員が派遣社員とかパートとかの安い労働力に置き換えられて骨抜きにされつつあり、また一方市場では、競争を避けた企業間での談合が花盛りである。こうして「同」の国日本では、御都合主義の解釈をして、再び大企業優位の時代に戻りつつある。
「和」は決して「反競争」を意味するものではない。「和」にかこつけて競争を止めることは「同」つまり、馴れ合うことになるのである。「付和雷同」は「不和雷同」と同じことなのである。戦時中の「大同団結」の勇ましい掛け声はもう結構である。だから是非とも「和而不同」でなければならないのだ。一定のルールの下での競争は大いにやってもらわなければならない。(ただし、敗者に対して、暖かい救済と再チャレンジのチャンスを残しておくのが「和」の精神であることは言うまでもない。)競争を止めることは、尊厳な存在である人間の労働力が商品となる労働市場だけに留めておいて貰いたいのが、これまた「和」の精神なのである。

以  上
(注釈や半畳の多く入った長い文になってしまいました)

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