随筆集 生と死

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素直と疑念

岡本幹輝

 素直な態度は何事にあたっても必要である。学問において、とりわけ初心者が指導を受けるにあたっては絶対に必要な姿勢である。この場合、素直という意味は、何らの既成概念や疑念を持たず、目にした事物や耳にした情報などを与えられたまま受け入れるという態度や姿勢である。初心者が急速な進歩を遂げるのは、この態度や姿勢によるところ大である。だから教育者も、素直な子ほど成績がよく進歩も早いことを認めている。昔は学問の分野と重複していた宗教の場においても、素直な信心が要求されるのは信仰の世界においては学問の場以上に当然である。

 このように何か物を学ぼうとするときには、素直に指導者の教えることをそのまま受け入れることが必要だとすれば、教えてくれる人を選ぶことが極めて重要になってくるということは、言を俟たないであろう。このことは信仰の場ではもっとその重要性は大きいことも改めて説明するまでもない。信ずる心は疑いの心の対極にあるので、指導者の選択の重要性は学問の比ではない。邪教であっても疑わずに信じなさいというのが宗教である以上、指導者を選別することすら教義に反すると見做されるからである。だから、入信する際には、歴史や伝統があり、多くの聖者や先達の輩出している宗教を選べということにもなろう。

 さて、学ぶ人も初めのうちこそは長足の進歩を遂げたとしても、そのうちには必ず壁に突き当たって停滞し、悩み焦るようになる。そこで諦めてそれ以上の学ぶことを継続せず断念してしまう場合もある。そのようなとき、もう一踏んばりしてその壁を乗り切ると、それまでよりも一段と高いレベルに飛躍するのではあるが、それが人によって時間が掛かったり、回り道をしたり様々である。こういった場合他人の援助は概して役に立たず、自分で苦しんでこそ解決が求められるのであるが、このようなときには、素直な態度、姿勢よりも、疑いを持ち、批判を加え、試行錯誤する態度、姿勢が必要となる。まじめに悩み、苦しみ、疑う人ほど飛躍の高さが高いとさえ言ってよいであろう。つまり、素直よりも疑念が求められてくるのである。信頼してきた教師の指導方法や指導内容をあえて疑い、何事にも一応は疑って掛かる態度、姿勢である。学ぶ仲間と議論しあうことも相手を説得する意味からではなく、自分の疑念の解決の手がかりを得るためからこそ必要となってくる。

 疑いを捨てて信ずるだけが求められているかに思われる宗教においても、疑うことは極めて重要である。「何のために生まれてきたのか?」、「天国や地獄は本当にあるのか?」、「人が本来仏(ほとけ)なのなら、何故修行するのか?」などの疑問から出家してその答えを宗教に求めた先覚は多いのである。今でも『大疑』の扁額が掛かっている禅堂も多い。

 このように、長い間に培われて来た権威に裏付けられた学問の世界や信仰の世界に於いてさえ疑問や疑念の果たす重要性が指摘されているのに、一般の社会生活においてはなおさらのこと、権威のある人の発言を疑ってしかるべきなのではあるが、どうも日本人は権威ある人どころか一般他人の発言ですらこれを疑わずに受け入れてしまう傾向が強い。言葉を代えて言うならば、騙されやすいほどに素直なのである。

 世界の中心から隔絶した島国で、近世の諸文化の交流期にあっては国を長いあいだ鎖し、その後には中央集権の絶対君主政権の続いた日本においては、いい意味では治安もよく異民族間の抗争も極めて少なかった反面、他人を信じやすい、言葉を変えて言えば騙されやすく上の人の言う言葉なら無条件に盲信する、governableな(統治しやすい、されやすい)国民性が培われてしまっている。だからこそ、俺おれ詐欺、振込め詐欺にも突け込まれやすいほどお人好しが多い。

 権威ある立場の人たちの意見や世間一般多数の流す風評を、「本当かいな?」とひとまず疑ってかかる姿勢、態度が必要なのである。とりわけ対象が人の場合、何の裏付けもなく「あいつは○○だ!」と権威ある人たちの決め付ける発言には、大いに疑うべき訓練が日本人には必要であろう。

以 上

 

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